第8回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門 優秀賞受賞作品


    『 強い心で乗り越える』        

                                           塩路智佳子

 私の学生時代、1980年代は校内暴力、ヤンキー、不良がかっこいい、とされているような時代でした。
 「いじめ」という言葉はまだ世に無かったのですが、登校拒否、リンチ、焼きを入れる、などという言葉で「いじめ」が行われていました。

 そんな時代に中学生になった私ですが「いじめ」などとは全く無縁に夢と希望をいっぱいに桜の花が咲き誇る校門をくぐりました。中学生になったら学生服に変わり、小学生の今までとは違いちょっぴり大人になったような気分でただただワクワクした気持ちばかりでした。楽しいことばかりが待っているんだ。とただそんな気持ちでいました。

 入学してすぐに、同じ小学校から上がったYちゃんの名前が頻繁に女子トイレに落書きされているのを見かけるようになりました。Y子死ね!とか、名前をバツで塗りつぶされていたり、毎日毎日、女子トイレに落書きが書かれては消され、また書かれては消されていました。
 その時は、Yちゃん、なんであんなこと書かれてるんだろう?誰が書いているんだろう?気の毒に。ぐらいの気持ちで見ていました。                           

 1、2ヶ月書かれ続けた頃に突然それはピタリと止みました。ちょうどその頃、Yちゃんに彼氏が出来たと聞きました。その彼は学校の中で権力を握っている不良グループの一人でした。
 何にせよ、Yちゃんへの嫌な落書きがなくなってよかったね、ただそう思っていました。
 ところがしばらくすると、どういう訳か不良グループのターゲットが私の方に向いて来てしまったのです。Yちゃんへの落書きは、一学年上の女番長を筆頭とする不良グループの仕業で、Yちゃんが不良グループの中の一人と交際を始めた事で、落書きは無くなったようなのですが、次のターゲットが私になりました。

 それはある日突然起こりました。登校すると、私の靴箱の下、床にずら〜っと女番長を筆頭とした不良グループたちが座り込んでいました。そして私を見ると

「来た、来た。おい、来たぞ」「うっとおしいんや。ボケ」「死ねや」

  と睨みを利かせた顔で言葉の暴力が飛んで来ます。みんな床にすれすれに両足を開いて座る「ヤンキー座り」でお出迎えです。
 学校が終わると、帰り道、私の真後ろを道いっぱい横一列に不良グループが付いて来ます。そして背後から「おい、お前、死ね!ボケ!いきってんなよ」女番長がずっと暴言を吐きながら歩き続けます。その周りを怖い顔をした不良グループの男子たちが威圧感たっぷりにぞろぞろと続きます。私は後ろを振り返らないようにひたすら歩くだけが精一杯でした。十分ほど歩くと私の自宅は右方向、彼女たちは駅へ向かう左方向の別れ道が来ます。 その間ずっと背後から暴言を浴びせられ歩き続けます。十分ほどのその帰り道のどれだけ辛く長かったことか。あと少しで別れ道、あと少し、あともう少し、と自分に言い聞かせながら歩きました。
 朝のお出迎えと帰りのお見送り、毎日毎日続きました。
 次第に朝、学校に行くのが辛くなってきました。目が覚めると「あ〜、今朝も靴箱のところで不良グループが待ち構えていて怖い顔で睨まれて暴言を吐かれる」それを思うと怖くて辛くて家から出たくないようになって来ました。でも両親には心配をかけたくなかったから、家ではその事を一言も話しませんでした。だから朝も「行ってきます」と言って普通に家を出ていました。その時の救いは近所に住む同級生のTちゃんが一緒に登校してくれることでした。Tちゃんはいつも少し朝寝坊をするので走って来るのですが、欠かさず私の家の前で合流して、そこから学校までは毎朝一緒に登校してくれました。靴箱のところまで来ると不良グループが待ち構えているので、いつの間にかTちゃんは教室に向かっているようでしたが、学校の靴箱までは毎朝一緒に登校をしてくれました。

 それが支えになり、休まずに学校に行けたのかなぁ、と今振り返ってみるとそんな気がします。
 しばらくするとクラスメイトの様子も変わって来ました。小学校から仲良くしていた友達も、中学になって仲良くなった友達もさあ〜っと潮が引くように周りからいなくなっていました。教室に入って「おはよう」と言っても誰も目を合わせて返事をしてくれなくなりました。席替えをすると私の机の周りだけは他の子よりも30センチくらい距離を開けてみんなの机が置かれました。汚いもの扱いです。窓際に並べられた技術の授業で作った作品たちはいつの間にか私の作品だけが、窓の下に落とされて壊れていました。 

 全校集会の時などは長椅子に男子二人、女子二人の四人がけをするのですが、私の隣の女子の席にはいつも、知的障害を持つ女の子が座らされていました。
 そして男子は誰も私達二人の長椅子には座ろうとしませんでした。誰かが知らずに座ろうとすると「おい、そこダブルやぞ!」と誰かが止めていました。そんな毎日で辛くて何度も心が折れそうになりました。不良グループから暴言を浴びせられたり睨まれたりすることよりも、クラスメイトから無視され汚いもの扱いされることの方がずっとずっと辛くて苦しかったです。

 でも私は学校を休みませんでした。
 入学したころ思い描いた色んな夢と希望を諦めました。学校には勉強をしに行こう、そう決めて先生の授業をしっかり聞く毎日でした。そうしたら成績だけはどんどん伸びていきました。そのうちになぜだかわからないのですが、ずっとそばにいてくれるKちゃんという友達が出来ました。彼女は誰からも嫌われたりしていなくて、友達もたくさんいる子だったのですが、いつもにこにこ笑ってそばにいてくれました。

 不良グループからのお出迎えとお見送り、クラスメイトからの汚いもの扱いは相変わらずでしたが、気にせずそばにいてくれる友達が出来たことで私の毎日は少しずつ幸せを感じることが出来る毎日に変わっていきました。後にナースとなるKちゃんは正に博愛の持ち主であったのだと思います。私といることで同じように嫌われたり睨まれたりするリスクがあったでしょうに気にせずそばにいてくれた彼女は本当に強くて美しい心の持ち主なのだと思います。
 
 他にも個人的だと話をしてくれたりする子も出てきました。
 その時、人というのは我が身が一番可愛いから、強い者が「あの子が嫌いだ」と言うと、例え自分がそう思っていなくても嫌いな態度を取るものなんだ、と言うことを知りました。全員が私のことを本当に嫌いだと思っている訳ではないんだ、と言うことを知ることが出来てそれだけでもとても救われました。

 二年生に進学する少し前に、いじめは突然終息を迎えました。

 いじめのことを気付いていないと思っていた母が、どこから誰から聞いたのかわからないのですが動いてくれたことがきっかけでした。自宅の隣に二学年上の幼馴染のお姉さんが住んでいて、彼女は成績優秀、スポーツ万能、先生や不良グループからさえも一目置かれていました。彼女は私の母のことを第二のお母さんと慕い、私のことも実の妹のように可愛がってくれていました。その彼女に母が相談を持ちかけたようです。

 ある朝、登校するといつものように女番長が靴箱の下に座っていたのですが「ちかちゃん、おはよう」と暴言ではなく挨拶をしてきました。私は耳を疑いました。戸惑いながらも「おはようございます」と答えました。翌日から不良グループからの朝のお出迎えも帰りのお見送りも無くなりました。
クラスメイトたちからの無視や汚いもの扱いも無くなっていきました。
 女番長のいじめをストップさせたのは、幼馴染のお姉さんの一言「K子、幼稚なことをするのは辞めなよ」その一言だった、と後で知りました。一年近くも続いたいじめに悩んだ苦しい日々が一人の強い人のたった一言で一瞬で終息するのだ、という現実。 その経験からとても強くなれたし、悩んだ時、苦しい時は「その悩みの現況よりも強い人」に頼ったり相談したりすることの大切さを学ぶ事が出来ました。

 その後40年ほど経ちましたが、大人になってからもいじめや意地悪のターゲットになってしまうことが何度も起きました。でもその度に「いじめ」をしている張本人よりも強い人に相談したり助けてもらうことで乗り越えて来ることが出来ています。

 今、「いじめ」に遭って苦しんでいる方たちに伝えたい。

  自分の大切な人生を自殺や引きこもりや絶望、マイナスな人生に終わらせないようにしてほしい。心を強く持ち、解決の糸口は必ずある、明けない夜はない、止まない雨はない、と言うことを心に留め希望を持って生きて行ってほしい。
 強い心で乗り越えた先には幸せな未来が必ず待っています。